最初にお断りしておくと、6月にヒューリックホール東京での追加公演が決定しているため、昨日の4月14日、神田明神ホールで行われた川谷絵音のソロプロジェクト・独特な人「実はセリフ」の詳細についてはあえて明言を避けている。
絵音さまや関係者の方々が綿密に準備されてきた時間と労力を思うと、その種あかしをここで安易にするのは避けたいという想いからだ。
仮にお伝えしたとして、その場の空気感や重みを100パーセント言葉ですくい取って並べられる自信もない。
そのため当ブログでは、独特な人「実はセリフ」に参加して、彼の1ファンとして感じた私的な感想と概略のみお伝えしようと思う。
最前列で、川谷絵音の一挙手一投足を目に焼き付けた神田明神ホールでの「独特な人」
人生最大の良席だった。
「独特の人」のチケット引き換え後、数日たった頃。
『そういえば・・・』と会場の座席表をネットで確認した。
・・・
・・・
・・・。
えっ?
えっ⁇
これヤバくない⁇
・・・。
ヒィイイイー‼︎
チケットに印刷されていた列番は、なんと最前列ど真ん中の席だった。

ちなみに今回の公演は全席指定。通常のライブみたいに押しつぶされたり端っこに流されていくなんてこともない。
こんな神席で、腰を落ち着けて絵音さまの弾き語り(←まだ何をやるかわかっていなかった)を聴けるとは!
うううう、うれしい・・・(号泣)。
『でも当日の席順はネットの座席表とは違うかもしれないから、あんまり浮かれないでおこう』。そう気持ちを落ち着けて出かけた神田明神ホール。
しかしやはり、扉に貼られた座席表を何度確認しても、自分の席は最前列のど真ん中で間違いない。
実際に席に着いてさらに驚いたのは、ステージと座席が近いこと。
自分の席からステージに置かれていたセットの椅子まで、2メートルもなかったと思う。ステージそのものの高さも低いし、仕切りのフェンスもない(驚)‼︎
こんなに絵音さまの近くだと、逆に緊張しすぎて吐くかも?ってくらいの距離感で、人生最大の幸運に軽くめまいがした。
でもこの時は、これから何が目の前で繰り広げられるのか、わかってなかったんだよな・・・。

独特な人「実はセリフ」の会場となった神田明神ホール
ファンサービス的萌えポイントが散りばめられた前半から一転、後半はファンの感情をジリジリと締め上げるかのような展開に・・・
「Mr. ゲスX」のダンスは脱力ものでめちゃめちゃ笑ったし、ある劇中では絵音さまが見せた媚びの仕草と子犬のようなウルウル上目遣いに何度もキュン死寸前に・・・。
こんな近くで絵音さまのあんな表情が見られるなんて・・・。
公演前に神田明神でお賽銭に500円を間違って入れた甲斐があったというものだ。
・・・と、「独特な人」の前半はファンサービス的な要素が多く、素直に楽しかった。
ところが後半戦に入って来ると、場の雰囲気が徐々に静まり返っていく。
ファンの傷は癒えても、川谷絵音の傷が癒えることはない
最近ではバラエティー番組で “あの件” をイジられるのにも慣れたように見え、ツイッターで見せるアンチコメントに対する抜群の切り返しを見ても、「川谷絵音はすっかり立ち直った」ように映っていた。
だが、昨日「独特の人」のパフォーマンスでファンが再認識したことは、彼の心の傷はそう簡単に癒えるものではないという事実だった。
匿名性の笠を着て攻撃してくる他人に対する嫌悪と、二枚舌の大人たちに対する軽蔑。
お茶の間の “川谷アレルギー” が収まりつつある今の状況では、むしろ好感度さえ上がりそうな勢いなのに、そのまま看過できないのが川谷絵音という人なのだ。
当事者ではないファンにとっては “あの騒動” はすでに遠い過去の記憶だが、その渦中で本人が受けた傷は底なし沼のように深いものだったのだろう。
その悪夢を象徴するシーンはとてもショッキングで、その場に居合わせた観客は言葉を失った。
無数の弾丸のように襲ってくる悪意の言葉や無言の視線の矢は、それほどまでに人を思い詰めさせる。普通の人間ならとっくにおかしくなってしまう状況だったのだ。
その後、何度振り払っても絡みついて振りほどけない蜘蛛の糸から逃れるように、絵音氏は尋常ではない勢いで音楽活動に没入していった。
それはあの辛い時期に、生きる最低限の呼吸をするための必然的行為だったのかもしれない。

ファンに課せられた重すぎる問い
荒っぽく言えば、絵音さまの心の拠り所は今も昔も「音楽」そのもののように感じる。
その一番大切にしている「音楽」が、表層的なもの(セリフ)によって惑わされ、わかったふりをされることに我慢がならない。
どうしてみんな「音楽」そのものに向き合ってくれないの?
言葉なんて所詮セリフだよ
それがわかってくれないなら、もう音楽なんてやる意味がない・・・
彼の悲痛な叫びは「独特な人」の後半になるにつれ、何重もの束になって観客に覆いかぶさってくる。
あの場にいた大多数のファンの気持ちは多分こうだった。
『えのぴょんのファンとしてここに来たのに、なぜこんな煮え湯を飲まされなければならないの?』
「独特な人」は楽しくて贅沢で残酷な時間だった
誤解しないで欲しいのは、「独特な人」の公演中は純粋に笑えた場面もたくさんあったし、ファンなら思わず口元が緩んでしまう、胸がキュンとするような絵音さまの表情を間近で見ることもできた。
豪華すぎるゲスト陣や、練りに練られた構成も素晴らしいものだった。
だから「独特な人」に参加できたことを自分は後悔していない。
むしろこの価格で、オーディエンスの誰もが想像していなかった3時間という長丁場を演じきった川谷絵音というアーティストと、「独特な人」に関わった出演者や関係者の方々に最大限の拍手を贈りたい。
中には嫌悪感を感じる人もいたかもしれないし、煙にまかれたような気分で釈然としないという人もいただろう。
確かに、一生懸命絵音さまを信じてついて来てくれるファン、今回のソロ・プロジェクトにエンターテイメント性を期待して会場に足を運んでくれたファンに対して、「独特な人」の一部は酷な内容だった。
だが、決して演技とは感じさせない鬼気迫るやり取りで、川谷絵音という人間の孤独と闇をファンの前にさらけ出して見せてくれたことに、素直に心が打ち震えた。
独特な人「実はセリフ」とは一体何だったのか?
実際に「独特な人」の公演を鑑賞した後で、なぜ10月のライブから始まり、わざわざまどろっこしい方法でファンにこの公演の申し込みをさせたのか、その謎が少しわかった気がする。
少なくとも世間一般の人たちよりは絵音さまの曲に理解のあるファンから、何が何でも観たいという本気度の高い人たちを面倒臭い応募方法でふるいにかけたことの理由だ。
- 自分一人では抱えきれない痛みをさらけ出して、ファンに受け止めてもらいたかった。
- 川谷絵音の愛してやまない「音楽」に対しても、彼のファンには言葉によらず、自分の感覚を大切に聴いてもらいたいというコアメッセージを伝えたかった。
そのやり方が、いかにも絵音さまらしい不器用な伝え方だったとしても、それでも一生懸命理解しようと向き合ってくれるファンが彼には必要だったのだ。
だけど僕は
川谷絵音のファンは、散々彼に(勝手に?)振り回され、(勝手に?)我慢させられ、音楽に言葉による先入観を持たずに本能で向き合うことを求められ、音楽以外にも広く色々なことに目を向けてほしいというメッセージまで託される。
はっきり言って、『これ以上、どうしろって言うんだよ!』とファンが匙を投げたくなったとしても当然だ(笑)
でもどんなに無理難題を言われようとも、一度は匙を高く放り投げてしまっても、彼の音楽のファンならば、地面に転がった匙をそのままにして去ることなんてできない。
川谷絵音の曲の魅力を一度でも知ってしまったら、ファンは悔しいけれど為す術がないのだ。
自分もそんな川谷音楽隊の隊列の最後尾で、彼のメロディーをどこまでも追いかけ続けるのだろう。
川谷にとっても、ファンにとっても、休日課長の存在が救いだった独特な人「実はセリフ」
「独特な人」の後半部分、川谷自身やファンの身を刻むような重い言葉の応戦が続く中、いつもと変わらない(ように見える)課長の存在は、オーディエンスの唯一の心の拠り所だった。
実際のところ、普段からハラハラさせられっぱなしの絵音さまに対して、いつもおおらかに「清濁併せ吞んで」彼の存在や音楽を受け止め続けてくれたのは課長なのではないか?
課長の元で、絵音さまはその危なっかしいバランスをかろうじて保っているようにも見える。
そしてファンは「だけど僕は」と叫ぶ川谷絵音を丸ごと受容して、彼の創造する曲たちを聴くことを決してやめない。
