思い出が絡むと物は捨てづらい。我が家でもなかなか手が出せずにいた子どものぬいぐるみ。春の断捨離で使わなくなった学用品や幼少期のおもちゃに大なたを振るった後も、ぬいぐるみだけは手がつけられずにいた。だが、今はそのぬいぐるみもこの家にはいない。
ぬいぐるみが処分しづらい3つの理由
1. 情が湧くから
物にも魂が宿るという考え方は日本に古くからあるセンチメントだ。
その中でも取り分け “ぬいぐるみ” のような顔のあるものは、長く一緒にいるほど情が湧いてきて捨てづらくなる。
一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、心が通うように感じ、心の友を処分することは非情なことだと感じるまでになる。
2. ぬいぐるみにまつわる思い出まで捨ててしまうような気がするから
これは〜歳の誕生日のプレゼント、これはレジャー先で買った思い出の〇〇……。
服などの生活必需品と違って、ぬいぐるみにはそれを買ったりもらったりした際のストーリーが色濃い。このストーリーが、ぬいぐるみの捨てづらさにつながる。
いざ処分するとなると、ぬいぐるみにまつわる思い出がフラッシュバックして、大事な思い出まで一緒に捨ててしまうような気分にかられるのだ。
3. いただいた人の気持ちを考えると心が痛むから
孫やひ孫をもつおじいちゃん、おばあちゃんなら、子どもたちが喜ぶものを買ってあげたいと願うのは、ごく自然な感情。
ぬいぐるみや人形を与えられた子どもたちも喜び、一緒に遊んだり枕元に置いて寝たりするのだが、それは子ども時代の一瞬の出来事でしかない。
『いっぱい遊んで、おもちゃとしての役目は十二分に果たした。もう捨てよう』と、親がいざ処分しようとする際、いただいた方の顔が浮かんで捨てられない、というのもありがちだ。

上記のような思考の沼に一旦陥ると、ぬいぐるみや人形の断捨離はようとして進まない。
ではそこからどのように “処分するマインド” へとシフトすればよいのだろうか?
もちろん、そのぬいぐるみがいまだ現役で、子どもたちが大切にしているものなら絶対に手をつけてはいけない。ここで処分しようとしているぬいぐるみは、かつてはよく遊んだものの、今では子供部屋や納戸でホコリをかぶるままになっているものを指す。
処分を考えた時点で、それはすでに要らない物。
情が移って捨てられないと言っても、「もういいかな」と思った時点で、ぬいぐるみと人の縁は切れている。
その状態で、処分せずに持ち続けることに何の意味があるのだろうか?
ペットの飼い主は責任を持って最後までペットの面倒を見る義務があるが、ぬいぐるみはそうではない。
もうお別れの時期だと感じたなら、「この家に来てくれてありがとう」、「遊んでくれてありがとう」と感謝して、さよならをしてもいいのだ。
ぬいぐるみを写真に納めると踏ん切りがつきやすい
思い出まで捨ててしまうようで辛いという問題については、ぬいぐるみ本体を残すのではなく、画像として残すという手段が有効だ。
今回我が家でぬいぐるみを処分する際も、ソファに一列に並べて写真を撮った。
写真に一度収めれば、画像フォルダをクリックするだけで懐かしの面々と再会することができる。

プレゼントする側の立場で考えてみるのも有効
ではそのぬいぐるみを頂いた方に『悪い』という罪悪感とはどう向き合うべきなのだろうか?
これは自分が贈る側の立場だったらどう感じるかを考えてみるといい。
ぬぐるみを贈ったときの子どもの笑顔や歓声を目にしたならば、贈り主の気持ちは満たされる。プレゼントとしての役割は、この時点で達成されているのだ。
贈った人も、まさか子どもが大人になるまで、後生大事にぬいぐるみを抱えているなどとは期待もしていない。
むしろ自分が贈ったものが、その後何十年もホコリを被り、家族に疎まれていると想像する方が辛い。旅行のお土産だって、友だちや職場の人に渡してその後どうなったかなんて、いちいち覚えていないだろう。
だから贈り主に申し訳なく思う必要もないのだ。家に何を置くのかぐらい、自分で自由に決めたっていいじゃない。
ぬいぐるみを処分する際に気をつけること
一点、子どもの教育上気をつけていることとしては、親と子どもが納得しておもちゃやぬいぐるみを処分するときも、子どもの目の前でゴミを扱うようにかつての宝物を扱わないこと。
子どもには人さまの好意に感謝する心を忘れて欲しくないし、同時に必要のなくなったものを取捨選択することも少しづつ覚えて欲しい。
だから一緒に「ありがとう」と感謝して、人に譲れるものは譲り、残念ながら処分することになったものは、綺麗な袋に詰めて自分がそっと捨てることにしている。
「顔」があることでついつい感情移入してしまいがちなぬいぐるみ。処分のハードルを下げて、いらない物で占拠された空間と時間を取り戻そう。